
長久保赤水の生涯について
長久保赤水生存中の85年間は、8代将軍吉宗から11代家斉にあたり、水戸藩では5代藩主宗翰から6代治保にあたる。
特に治保のときは文運復興の時代でもあった。
こうした情勢下に、赤水は享保2年(1717)に長久保氏来住地、赤浜村字町の五代貞永の庄屋屋敷で誕生した。
その後は祖父母・両親・親族の愛護により農民の子として成長したが、祖父母を失い、8歳のとき両親・弟(2歳)・農夫と共に字北原の地に移り、新屋として独立し赤水一家は農業に励んだ。
その間に、弟は3歳・母は29歳・父は34歳と8年間に5人の近親を失った。
11歳の赤水は全くの孤児となったが、継母の愛育によりすなおに成長した。
そして壮年に至るまで松岡七友と交友を結び互いに学問に励んだ。
また柴田平蔵からの借用書籍から多くの啓発を受けた。
赤水23歳は同族忠次の娘(21歳)を嫁に迎えてからは、読書にもゆとりができた。
44歳のとき奥州北陸に、51歳のとき長崎行などをして、後に紀行文を再従弟(またいとこ)の中行が校訂をして発行した。
日本地図編集は35歳頃から始め、安永8年(1779)に改正日本與地路程全図を大阪から発行した。
その後も赤水図として明治初期まで約1世紀間も名声を博した。
61歳で藩主治保の侍講侍読(じこうじどく)(講読官)となり、江戸小石川藩邸のお長屋に81歳まで生活した。
その間に中国地図・中国歴史地図帳・世界地図その他の諸書を発行した。
なお75歳で致仕し江戸を去るまで大日本史地理志稿の編集に専念し、82歳で水戸に移り立原翠軒宅に起居し、その校訂に没頭した。
寛政10年(1798)、82歳で赤浜村字北原の新屋・松月亭に帰り、享和元年7月23日、85歳の長命で没した。
同月25日北原墓地に葬られた。
明治44年6月1日、政府は特旨を以て従四位を贈られた。
昭和57年3月1日
高萩市教育委員会
(説明板より)
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2007年10月24日 高萩市 トラックバック:0 コメント:0